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Brown Water Navy Archive

仕事模様その後

結局、他の端末では再現しないので、ゲイツの呪いということにして一件落着。

  ◇

最近知った驚愕の事実。
田宮模型がイタレリ社の1/35キット、LCVPLCM3DUKWLVT-4を直販サイトで販売していた。
しかもLVT-4は戦後フランス軍用のデカールつきとな?まさかインドシナの第1外人騎兵連隊バージョンかッ!
アレか、もしかしてLCM3をベースにした河川海軍艦艇化改造キットとかも出ていたりするのか?!

  ◇

腕時計バンドが到着。 GraficのBrown。
チュードル・プリンスオイスターデイトのラグ幅は19ミリ。既製品のバンドは18ミリと20ミリが標準サイズらしく、19ミリのものは種類が限られているらしい。
初回特典でバネ棒外しがついてきており、それを使うと簡単にバンドを交換できた。
元々の黒色リザードから茶色のカーフに換わり、大分カジュアルな印象になる。元祖ロレックス・エクスプローラーの「冒険者向け」のイメージ、より正確には1960年代のヒマラヤやコンゴやベトナムに赴いた人も使った道具、というイメージに近づけただろうか。

従軍聖職者のメダル・オブ・オナー

引き続き、ベトナム戦争時の米海軍メダル・オブ・オナー受勲者の紹介。
今回は、海兵隊に派遣された従軍聖職者の話。

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ビンセント・R・カポダーノ大尉 従軍聖職者、合衆国海軍から派遣。

1967年11月4日、南ベトナムのクァンチ省での戦闘において、海兵隊第1海兵師団第5連隊第3大隊の一員として騎士精神と勇気をもって自らの生命をなげうち、顕著な功績を印した。

M中隊第2小隊から『敵攻撃部隊が接近中』との報を受け、カポダーノ大尉は比較的安全な中隊司令部を後に、啓開地の斜面の火線下を抜けて悩める小隊の元に駆けつけた。
彼は敵の小火器や機銃、迫撃砲の猛射をものともせず、負傷者の看護と最期の祝福、死者への祈りのため戦場を動き回った。

迫撃砲弾の炸裂が彼の腕と足に幾多の傷をつけ、そして右手を吹き飛ばした時、彼は一切の手当てをきっぱり断った。自分ではなく、他の負傷した戦友を助けるよう衛生兵に指示したのである。穏やかな活力を発揮しつつ彼はなおも戦場を動き回り、その言葉と行動とで海兵たちを励ましつづけた。

突然、衛生兵が敵の機銃に捕捉され、15ヤードほど離れた先で倒れた。彼は重傷を負った衛生兵を救うべく、大胆なラッシュを仕掛けた。
そして、あと数インチでゴールというその瞬間、彼は敵機銃の射撃によって撃ち倒されたのである。

戦場で見せた英雄的行動と奮起の手本により、カポダーノ大尉は合衆国海軍の偉大な伝統とは何たるかを示した。彼は勇敢にも自由主義のために命を捧げたのである。

  ◇

(訳注)
従軍聖職者がメダル・オブ・オナーを受勲した、かなり珍しいエピソード。
最初はChaplain Corpsを「従軍牧師」としたが、宗派や位階を特定する用語のため「従軍聖職者」に直した。
struck downは「撃ち倒された」と訳したが、「ラッシュ」「ゴール」と同じくラグビーかアメフトの用語のような気もする。

SEABEESのメダル・オブ・オナー

興が乗ったのでもう一人、ベトナム戦争時のメダル・オブ・オナー受勲者を紹介。
今回はSEABEESのマービン・G・シールズの話。
当時の職能級はConstruction Mechanic Third Class。建設機械運用員、つまりブルドーザやユンボのオペレータだったのであろう。

  ◇

マービン・G・シールズ、3等建設機械運用員。

1965年6月10日、南ベトナムのドン・ハにおいて、合衆国海軍Seabee Team1104の一員として、騎士精神と勇気をもって自らの生命をなげうち、顕著な功績を印した。

米陸軍第1特殊作戦部隊(1st Special Forces)の第5特殊作戦群(5th Special Forces Group)によるA-342分遣隊(Detachment A-342)駐屯基地に対して一個連隊規模のベトコンが重・小火器で猛攻撃を仕掛けた際、シールズは約3時間に渡る射撃戦の間、負傷を負いつつも仲間の将兵への武器・弾薬の配給を続けた。

続いて、ベトコンは火炎放射器や手榴弾・小火器で白兵戦を挑んできた。
この2度目の戦闘でシールズはさらに傷を受けたが、にもかかわらず、4時間以上続いた戦闘の間、負傷した兵をセーフティゾーンに後送するのを手伝いつづけた。
その正確な射撃が基地全隊員を危機に晒していた敵の機関銃座を叩くべく指揮官が同行者を募った時、シールズはこの非常に危険きわまる任務にすぐさま志願した。
この機関銃座に接近しての3.5インチロケットランチャーによる攻撃は成功し、機関銃座の破壊によって疑いようもなく数多くの戦友が救われた。
しかし、シールズ自身は、友軍陣地に戻る途中で敵によって致命的な銃傷を負ったのである。

猛射撃に相対して彼が示した英雄的勇気と武勇は、合衆国海軍の偉大な伝統の発露であるとともに一層の輝きを加えるものである。

  ◇

(訳注)
シービーズは工兵の一種。「海軍設営隊」と訳される事が多いが、軍属の割合が多かった日本海軍の設営隊に対してシービーズは正規兵中心の編成である。軍事と建設のプロフェッショナル・エキスパートの部隊として独特の地位と誇りを持っている。
1965年当時のシービーズは南ベトナム援助計画に沿って軍事拠点や社会インフラの構築などを行っており、第1特殊作戦部隊のグリンベレーと共に最も早い段階からベトナムの戦争に関っていた。

BWNとメダル・オブ・オナー(3):ウィリアムス一等海曹

3人目のBWNメダル・オブ・オナー受勲者。ベトナム戦争でのBWNとメダル・オブ・オナーについての拙訳。

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ジェームズ・E・ウィリアムス一等海曹(PO1c.)。

南ベトナムでの戦闘において、River Section 531の一員として自らの生命を顧みず、騎士精神と勇気をもって人並み外れて顕著な功績をあげた。

1966年10月31日、River Patrol Boat (PBR) 105とその僚艦が2隻のサンパンの奇襲を受けた時、ウィリアムス海曹は艇長兼パトロール艇隊長であった。

ウィリアムス海曹は直ちに反撃を命じ、一隻の敵を倒すと、もう一方のサンパンが河の手近な狭水路に逃げ込もうとするのを追った。

逃げるサンパンを追ううち、米軍のパトロール隊は河岸の至近距離に隠蔽した敵からの小火器による猛烈な弾幕と遭遇した。

パトロール隊は高速機動でこの砲火をかわすと、河岸の重機関銃に支援された2隻のジャンク、8隻のサンパンという多数の敵に立ち向かっていった。

続く苛烈な戦闘で、ウィリアムス海曹は身の安全をまったく顧みず、雨あられと降る敵の砲火に身をさらして射撃を続け、その姿にパトロール隊は大いに鼓舞された。

敵軍が圧倒的多数であることを知ると、ウィリアムス海曹は武装ヘリコプターと合流すべくパトロール隊を一旦退避させた。この機動中、彼らは別の敵船の大グループと遭遇する。武装ヘリコプターの到着を待たず、彼は強烈なイニシアチブをもって敵の砲火の下でパトロール隊を指揮し、7隻のジャンクと50隻のサンパンを撃沈または破壊した。

武装ヘリコプターの到着によって戦闘が次の段階に入ると、ウィリアムス海曹は残敵の掃討を命じた。この時にはすでに日没となっていたが、ウィリアムス海曹は彼のボートが絶好の標的となる事を承知の上で河岸にサーチライトを照射しつつ攻撃を続行した。パトロール隊の弾薬は不足しつつあったものの河岸の敵の捕捉に成功し、敵部隊は全滅したのである。

ウィリアムス海曹のリーダーシップの下、パトロール隊はプロのスキルと不屈の闘志をもって3時間の戦闘で敵船艇65隻を撃沈もしくは破壊し、多数の死傷者の犠牲を敵軍に強いた。

重大な危機に直面した時に彼が見せた勇敢さとファイティングスピリッツによって、彼の部下達は圧倒的多数の敵を打ち破った。これは合衆国海軍の範となるべきものである。

  ◇

(訳注)
TF116のPBR隊による、ドラマチックな戦闘。
ウィリアムス一等海曹の職能科はBoatswain’s Mate First Class(運用員/甲板員/ボースン)。この時はPBRの艇長兼PBR隊の司令として奮戦した。

BWNとメダル・オブ・オナー(2):オーレット水兵

トマス・G・ケリー中尉に続き、ベトナム戦争でのBWNとメダル・オブ・オナーについての拙訳を。

  ◇

デビット・G・オーレット水兵。

南ベトナムでのRiver Section 532所属時の戦闘において、彼の騎士精神と勇気は、自らの命と引き換えにした崇高な行動を行った。

River Patrol Boat (PBR) 124の前部機銃手としてメコン川をパトロールしていた1967年3月6日の夕方、河岸に不審な動きを発見したデビット・G・オーレット水兵は艇長に警報を発し、その付近を偵察するよう進言した。

PBRが高速で河岸に接近を開始した時、オーレット水兵は敵が投げた手榴弾がボート内に落ちたのを目にした。
彼はためらわずに安全地帯である銃塔から飛び出し、全速で滑走しているボートの船尾にいる仲間たちに「伏せろ!」と叫んだ。
オーレット水兵は、無防備に立っていた艇長をとっさにエンジンルームカバーの上に押し倒し、自らの身体でおおいかぶさった。
手榴弾の落下に続く数秒間、避けようのない死に直面しつつ、オーレット水兵は彼自身の身体を死神のミサイルに対する盾となして爆発のほとんどを受け止めることによって戦友たちを戦死と負傷から救ったのである。

自らの生命すら投げ出した彼の自己犠牲の精神と勇敢な行動は、並外れた勇気と私心なき献身という合衆国海軍の偉大な伝統の一つとなった。

  ◇

(訳注)
オーレット水兵はRiver Squadron 5隷下のMy Tho Detachment 532所属。「ミ・ト第532分遣隊」という意味になるが、戦闘単位としてはRiver Section 532と呼ばれる。
持ち場のガン・ターレット内なら手榴弾の被害を受けなかった可能性が高いにもかかわらず、身を挺して戦友を救ったのが非凡なところ。
最後の一行は結びの文として格調高い定型文らしく訳すべきか。

BWNとメダル・オブ・オナー(1):トマス・G・ケリー大尉

BWNによるメダル・オブ・オナーの受勲理由について、拙訳を紹介。

  ◇

トマス・G・ケリー大尉。

1969年6月15日午後に南ベトナムで発生した戦闘において、River Assault Division 152の指揮官として、自らの生命すら顧みぬ騎士精神と勇気を示した。

ケリー大尉はキェン・ホア州のオン・モン運河東岸において、8隻の河川舟艇および陸軍から抽出された一個中隊の歩兵の上陸を指揮していた。その時、一隻の兵員揚陸艦がローディング・ランプの故障を報じた。

その直後に、運河の対岸からベトコンが猛烈な射撃を開始した。

故障した兵員揚陸艦が人力でローディング・ランプを巻きあげている間に他の艦船が援護するように命じたものの、彼の部隊は修理が済むまでこの危険なアンブッシュ地点に釘付けになってしまう。その危機に気づいたケリー大尉は、自らの搭乗しているモニター艦が楯となるよう、大胆にも敵の射線に割り込んだ。

突然、敵のロケット弾が操舵室を直撃し、厚い装甲を貫いた弾頭が破片を榴散弾のようにまき散らした。
ブラストによって船外に吹き飛ばされたケリー大尉はモニター艦の甲板に叩きつけられ、頭部に深刻な重傷を負ったにもかかわらず、他の艦を掌握して指揮を続けようとした。
甲板上で身動きできず、無線機も明朗な通話ができない状態だったにもかかわらず、敵が射撃を停止して艦艇が安全地域に離脱するまでの間、部下の一人を介して指揮を続けたのである。

ケリー大尉が示したすばらしいリーダーシップ、大胆なイニシアチブ、固い意志と決断力は、彼が救命ヘリコプターで後送された後も彼の部下たちの勇気の源となり、規範となった。
彼が砲火の下で示した並外れた勇気と私心なき献身こそ合衆国海軍の偉大な伝統を示すものとしてここに称えるものである。

  ◇

(訳注)
ケリー大尉はTF117の所属。LST改造の砲艦(モニター艦)や装甲揚陸艦に陸軍歩兵を乗せて、河岸へ強襲揚陸を行う。
揚陸艦は前面ローディングランプを閉じないと浸水するので離岸できない。

名誉議会勲章

名誉勲章1人だけ 米軍、泥沼のイラク戦象徴(茨城新聞/共同通信社)

 イラクでの死傷者の多くは、反米武装勢力が道路に仕掛けた手製の爆発物が原因。極端に少ない受章者の数は、大量破壊兵器が見つからず「大義」を見失ったブッシュ政権の苦悩と、泥沼化した「戦場」の現実を象徴しているといえそうだ。

昔っからメダル・オブ・オナーは軽々しく与えられるような勲章ではないんだが・・・。

特例中の特例であるメダル・オブ・オナーの数で云々しても意味がないのではないかとも感じたが、例えばブロンズスターの受勲者数もベトナム戦争等と比べて極端に少ないというなら、まあ事実イラクでの戦争の有様はそういう状態なのだろう。パープルハートはテロでも貰えるのだろうか。
受勲の多寡からブッシュ政権の開戦判断ミステイクや反戦撤兵の話と結びつけるのは強引だと思うが。

ベトナム戦争の全期間を通じて、Medal of Honorを受勲した米海軍軍人は16名。その内6名は死後に勲された。
SEALSと衛生兵(海兵隊に派遣されたもの)が目立つが、BWN関係からも3名がメダル・オブ・オナーを与えられている。
トマス・G・ケリー中尉・・・River Assault Division 152所属時の戦功による。
デビット・G・オーレット水兵・・・River Squadron 5所属時の戦功による。没後受勲。
ジェームズ・E・ウィリアム一等海曹(PO1c.)・・・River Section 531所属時の戦功による。

叙勲理由となった戦闘の模様はhttp://www.history.navy.milで読める。なかなか興味深い物語なので、そのうち暇を見て訳してみたい。

“Vietnam Combatant-Craft Crewman”

ちょっと旧聞に属するが、ベトナム戦争時のBrown Wather Navy所属将兵に対して専用の戦闘徽章が定められたという話。2005年8月22日付で海軍省の公式認定を受けたとのこと。

http://www.mrfa.org/Insignia.htm

(MOBILE RIVERINE FORCE ASSOCIATION)

I am proud to pass along the news that we were informed by the Department of the Navy on August 22, 2005 that our “Vietnam Combatant-Craft Crewman” insignia design has been officially approved for production. It is a “commemorative” award for Task Forces 115, 116 and 117 combat-craft sailors that has been officially sanctioned and approved by the Department of the Navy.

そもそもの発端は、「Special Warfare Combatant-Craft Crewman」 (SWCC)徽章が2000年に制定された時にさかのぼる。

この SWCC徽章は小型の戦闘用舟艇で実戦に参加した者に与えられるのだが、ベトナム戦争時のBrown Wather NavyはSWCC徽章の本来の着用資格からやや外れていた。そのため、BWN戦友会としても「これを俺達が着けるのは違うよな」という認識だったらしい。

それでも、少なくともTF-117所属だった将兵にはSWCC徽章の資格があるのではないかと軍当局に打診したところ、現在のSWCC徽章の条件を満たしていないとして難色を示された。
その代わりにBWNを包括的に対象とする徽章を新たに設ける事を提案され、そして3年間の運動の後に晴れて「Vietnam Combatant-Craft Crewman」が公認されたのである。

BWN関連では他に「Small Craft Insignia」(SCI)という徽章もある。しかし、これは舟艇の指揮経験が6ヶ月間以上ある士官・下士官のみに着用資格があるため、大多数のBWN将兵にはその特異な戦闘経験をストレートに示す徽章は存在しなかった。今回の「Vietnam Combatant-Craft Crewman」の設定は関係者一同に大歓迎されている模様で、大変喜ばしい事である。

2005年8月の段階ではまだ徽章の基本デザインの発表のみでこれから製造業者を選定して発注しようという話だったが、その後どうなったのだろうか。
VCCCがBWNベテランの皆さんに行き渡った後、僭越だけどひとつ手に入ったら嬉しいなと日本の一マニアは思うのであった。

トンキン湾からメコンに上った第七艦隊

トヨムラ大兄から「ミリタリー・マガジン」のVol.3を譲っていただく。
コンバットマガジンの臨時増刊号で、昭和57年8月の発行。「トンキン湾からメコンに上った第七艦隊」と題してBrown Water Navyの小記事が掲載されており、それについてのメモをば。

筆者は西村直紀氏。巻末白黒ページでの扱いながら3段組み10ページで写真・図版・表もポイントを押さえてあり、Brown Water Navyについての紹介が少ない本邦の商業雑誌での記事としては非常によくまとまった内容だった。
トンキン湾事件から始め、TF115・TF116・TF117、そしてオペレーション=シーローズとオペレーション=シーフロートに至るまでのBrown Water Navyの活動の主なところを記述している。
基本的には良い記事なのだが、細かな点で事実関係に誤りが散見された。また、読み物としての演出のためか多少筆が滑り気味なのが気になるところ。

・TF115に派遣されたコーストガードの艦艇について、初期に派遣された「82フィートクラスの哨戒艇(WPB)」と後に追加された「カッター」とが別々の艦種かのように書かれているが、これらは共に「ポイント級」82フィートカッターである。
・「ナスティー」級は哨戒艇ではなく、元々は魚雷艇。初期の不正規戦(北側領海に侵入してのヒットエンドラン作戦)ではUDT(潜水破壊工作チーム)と組んで戦果をあげていた。米海軍が小艦艇の活用に疎いというのはイメージから来る誤解か?
・TF115の華々しい戦果エピソードを紹介しているが、実際には単調なパトロールと臨検の繰り返しが続き、絶えず緊張を強いられる割には意気が上がらないものだった模様。
・東南アジアでの河川海軍作戦についてのノウハウはフランス領インドシナ時代の植民地陸海軍が積み上げており、アメリカ軍事顧問団は1950年代後半から1960年代前半にかけてそのノウハウの吸収と研究を行っていた。トンキン湾事件以降の本格介入の際に泥縄式に着手した訳ではない。
・1968年ごろの南ベトナム海軍について「民間から徴用したジャンクが戦力だった」としているのは手ひどい誤解を招く。1950年代にフランス極東艦隊から引き継ぎ、後にアメリカから援助を受けたWWII型駆逐艦や掃海艇、LST、潜水艦等を擁していた(但し士気と練度が低く、満足な活動ができなかった)。JUNK FORCEも編成されたが、それが南ベトナム海軍の全てではない。
・「F-5E戦闘機同様、多数の哨戒艇も共産側への置き土産となったのである。」と記事を結んでいるが、1975年のサイゴン陥落後にも一部の哨戒艇隊はデルタ地区での抵抗を続けた。また統一ベトナム空軍がF-5Eを運用したという話は寡聞にして聞かない。F-5Eと同列に「置き土産」として扱うのはちょっと違うのでは。

いろいろ書いたが、古い記事であるから当時の資料や認識としてはやむを得ない点もあるだろう。むしろ、ここまで全体がよくまとまった記事を書かれた、先達である西村直紀氏に敬意を表したい。

  ◇

結局ブラックホール2日目には出かけず、宅配便を送ったりなんだりと雑用。
夜はNHK大河ドラマと風林火山。
大河の方はキャストが全体に老けすぎておらんか。もう少し時代が下ったところを物語の中心にしたいのだろうが、桶狭間のころに中年ヅラの信長や藤吉郎というのは見ていて辛いものがある。
「風林火山」は、ちょっと駆け足進行か?ツンデレ萌えの人は姫のツンデレ振りを大いに堪能したと思われるが、どうか。

スイフト受賞

スズキ「スイフト」が2006年次RJCカー・オブ・ザ・イヤーを受賞

Swiftというと自分的にはこちらのほうが第一変換候補だが、本来、Swiftというのはウミツバメの一種の名称なんである。同じSwiftつながりという事でニュースを紹介してみた。

改めてwikipedia.orgにあるSwift boatの画像Swift_Boat_Owasco_PCF71.jpg
をよく見ると、左舷の2人(と船尾の1人も?)がタイガーストライプを着ている。キャビン前と船尾のクルーはそれぞれダンガリーシャツとODユーティリティ(又はジャングルファティーグ?)を着用しており、衣服のバラエティがなかなか好奇心をそそる。ダンガリーシャツ姿が混じっているという事はTF-115所属時の撮影だろうか。

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黒田慶樹氏と紀宮清子様、ご結婚。披露宴は帝国ホテルにて。
エンスー兼クラカメコレクターである黒田氏の趣味生活に幸あれ。

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